• 長野市が
    活性化していくために
    広い視野に立って
    邁進していきたい。

自分が好きなことに
ただ真っすぐに突き進んで。

 長野市内で農家を営む家の2人兄弟の長男として育った私は、小さい頃から好奇心の強い子どもでした。「柱時計はなぜ動くんだろう」「蓄音機から音が出るのはどういう仕組みだろう」と考え出すともう我慢ができなくて。分解しては壊して、そおっと隠すんですけど、やっぱり見つかるんですよね。よく親に怒られて、「正博には触らせるな」と言われていました。家には大きな脱穀機や籾摺り機があって、祖父や父が楽しそうにいじっていたので、機械好きは血筋かもしれません。高校は好きなことを学びたいと工業高校の電気科へ進学。先生に大学進学を勧められましたが、早く社会に出て自分の好きなことに集中したくてね。昔から自分がこうすると決めたら突き詰めていく性格で、卒業と同時に市内のメーカーに就職しました。
 自分としては、さあこれで好きな機械に思う存分関われるぞと思ったんですが、入社後すぐに富士通へ派遣され、プログラムやシステム構築をゼロから学ぶことになりました。当時、富士通では社内の給与計算や年末調整などの基幹システムを構築するプロジェクトが動いており、その一員として参画することになったんです。ここで経験を積み、その後、さまざまなシステム構築に関わる中で、徐々に自分の力を試したいという気持ちが強くなっていきました。

覚悟を持って
長野の活性化に取り組んでいく。

 独立したのは23歳の時です。自分を成長させてくれた会社には感謝しかありません。同僚や先輩など、いろいろな方に育ててもらい、そのご縁から仕事をいただくことも多々ありました。周りの意見や考えを素直に取り入れながら、自分なりに答えを出したら迷わずにとことん突き進む。その繰り返しで会社を育ててきたように思います。
 会社が成長するとともに地域との関わりも深くなっていきました。青年会議所やロータリークラブなど、初めは知り合いなど一人もいませんでしたが、常に自分から動いて相手の懐に飛び込み、多くの人脈を築くことができました。そのご縁から、加藤前長野市長が長野商工会議所の会頭に就任されたときに、口説き落とされて副会頭に就任。その後、会頭を任されることとなりました。
 平成25年11月に会頭に就任してから今日に至るまで、日本、そして長野は激変の只中にあります。平成26年11月の長野県神城断層地震や、令和元年10月の台風19号による災害、そしてコロナ禍と厳しい状況が続き、長野商工会議所にもさまざまな声や相談が相次いでいます。会議所も、行政への働きかけや補助金の活用、研修会開催など、官民一体となって長野経済を活性化すべく、日々努力し続けています。私自身も会頭を任されたからには、覚悟を持って地域のために何ができるかを常に考えています。さまざまな立場の方の意見をきちんと伺いながら、ここぞという時は自分の責任で判断していく。えびす講煙火大会や長野びんずるなどの祭事に関しても、最初から無理だ、止めようではなく、実現できる可能性を見いだし、すべて手を尽くした上で判断してきました。令和元年、2年と中止を余儀なくされたえびす講の花火も、昨年は4カ所分散で開催しました。創意工夫で歴史ある煙火大会を継続させることで、少しでも地域を活性化し、笑顔をお届けできたのではないかと思います。
 そして4月3日からは、善光寺御開帳が開催されます。今回は分散参拝のため期間を88日間とし、感染対策もできるかぎりの策を講じました。一人ひとりが感染対策を心掛けながら、善光寺を訪れる方々を笑顔でお迎えし、地域全体が活性化されることを期待しています。

(2022年4月号掲載)