戸隠信仰から生まれた
宿坊と戸隠講。
標高1000mを超える高原に位置する戸隠は、豊富な水源地でもあったことから、古くから九頭龍様を崇める信仰の地であり、平安時代には修験道の霊場として全国から多くの修験者が訪れました。その中の一人、役行者によって奥院が開かれ、次いで宝光院、中院が整備され、鎌倉時代初期には、現在の戸隠神社の前身である神仏習合の「戸隠山顕光寺」が成立。各院周辺には、修験者である衆徒の僧坊がいくつも構えられました。これが、宿坊の始まりです。
戦国期になると武田信玄と上杉謙信による戦乱に巻き込まれて一時衰退しますが、その後、上杉景勝によって再興されると、江戸時代には徳川家康より寺領千石を与えられ、信濃を代表する天台宗寺院として隆盛しました。
この時代、戸隠山顕光寺に所属した衆徒たちは「御師」と呼ばれ、積極的な布教活動を行いました。山を下り、信濃、越後を中心に、江戸、東北、近畿などに出向いて札を配りながら信仰を広めたことで、全国各地に「戸隠講」が組織されました。毎年、講の代表者が戸隠に参拝し、宿坊は非常に賑わったとされています。その際にふるまわれたのが、蕎麦切と呼ばれる現在の戸隠そばです。
今では「講」という存在を知らない方も多いと思いますが、現在でも戸隠神社では、新年の神事である歳旦祭の際に、その年の天候や農作物の吉凶を占う「種兆」を出しており、その予告書は、「戸隠講」の信者だけに配布されています。